誰にでも「得手・不得手」って、ありますよね。
そうは思っても、人と比べて劣っているところを見ると、「私ってダメだな…」と落ち込んでしまうこともあるでしょう。
それは小中学生も同じで、特に勉強や運動能力などは、できる人と比較されてしまうことが多くあり、比較されるたびに子どもの自己肯定感が損なわれてしまいます。
不得手な部分にどう向き合っていけばよいのでしょうか。
人間の個性について、仏教から学んでみましょう。
登場人物
真理子
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中2の娘と小4の息子を持つワーキングマザー。お気に入りのカフェで行われている「仏教塾いろは」に参加しはじめる。 |
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智美
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真理子さんのママ友達で、在宅でデザインの仕事をしている主婦。 |
塾長
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仏教塾いろはの塾長。アメリカの大学で仏教の講義をしていた。店長とは旧知の仲。 |
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昨日、うちの子が『僕ってなんでこんなに足が遅いんだろう。だからみんなからバカにされるんだ』って、すごく落ち込んで帰ってきたの。運動会の練習で、何かあったみたいで。
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息子さんの気持ち、よく分かります。私も足が遅かったから、運動会の時期はすごく嫌だったんですよね。でも息子さん、算数や理科の成績は、いつもクラスでも上位じゃないですか。
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励ましてくれて、ありがと!そうね、そういう得意なところを見て、もっと自信を持ってもいいのにね。誰にでも得手・不得手はあるんだから。
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1人1人、得意・不得意は全然違いますし、まず得意な所を伸ばしていってくれたらいいなって思います。仏教では、個性について、どう教えられているんですかね?
誰にでもある「得手・不得手」
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個性について、仏教の観点からお話ししますね。
世の中には何をやっても「完璧!」という人もいますが、ほとんどの人は、得意な所もあれば、苦手なところもあるでしょう。
そして時には、苦手なところが目立ってしまい、繰り返し失敗して落ち込み、「私ってなんてダメ人間なんだろう…」と自暴自棄になることもありますよね。
できる人が目について、ミジメな気持ちになることもあります。
小・中学生などの特に繊細な時期では、その不得手さがいじめの対象になるケースもあります。
それで心を痛めている子どもたちも、少なくありません。
しかし持って生まれた才能、容姿、体格など、努力しても変えられないものもあります。
不得手なことに落ち込んでいる子どもと、どう接すればいいか悩んでいる方も多いかもしれません。
エジソンのお母さんから学ぶ!子どもへの目の向け方
向き合い方について、発明王・エジソンとお母さんのエピソードから学べることは多いです。
不得手なところに目を向けるのではなく、得意な所、好きなこと、それをしていると目がキラキラ輝くこと、そういうことに目を向けるのが大切であると、そのエピソードは物語っています。
少年時代のエジソンは、好奇心が強く、いつも「バカげた質問」ばかりしていたという。父親はうんざりしていたが、母親は忍耐強く答えていた。
八歳で小学校へ入った。しかし、彼には学校の授業が合わなかった。興味のわかないものを無理に強いられることに、拒否反応を示したのだ。
後年、彼は、次のように言っている。
「わたしは学校ではどうもうまくいかなかった。クラスでいつもびりだった。先生たちはわたしのことを解ってくれないし、父はわたしをばかだと思っているのだ、とわたしはいつも感じていた」
学校に通い始めて三カ月ほどたった時、エジソンは、校長から、
「あいつの頭は腐っている」
と言われたのである。彼は、怒って教室を飛び出して家に帰り、
「もう学校へ行かない」
と言い出した。
翌朝、母親は、子どもと一緒に校長のところへ行き、激しく抗議した。母は、わが子の能力が低いとは夢にも思っていない。激論の末、息子を退学させ、自分の手で教育すると宣言したのである。
母は、朝の仕事がすむと、エジソンに読み書きと算数を教える毎日が始まった。やがてエジソンの興味が、科学に向いていることに気づいた母は、初等物理の本を与えた。その中には、家庭でできる科学実験が図入りで説明されている。彼は、夢中になって取り組み、掲載されている実験をすべてやり遂げた。
十歳になると、化学への情熱も高まり、あらゆる化学薬品を集めてビンに入れ、自分の部屋の棚に並べた。小遣いは全部、化学薬品や金属板や針金の購入に使っていた。
実験中に、自分の部屋で爆発を起こす騒ぎもあったが、母だけがエジソンを理解し、彼の才能が伸びる方向へ押し出してくれた。
(『新装版 親のこころ』木村耕一著 より引用)
この後もエジソンには難聴になるという新たな苦難が訪れましたが、いかなるハンデも乗り越え、自分の夢を実現させたのです。
晩年にエジソンは、「母と過ごした時間はけっして長くはありませんでしたが、母がああいう人でなかったら、私はぐれていたかもしれません」と語っています。
エジソンは、白熱電球や蓄音機、映画、謄写版、アルカリ蓄電池などを次々に発明し、生涯に千二百余りの特許を取得しています。
それは、エジソンが科学に向いていることに気づき、それを伸びる方向へと導いていった母親の存在が大きかったのです。そのおかげで、勉強は大の苦手であったエジソンが、今も歴史に名を残す大発明家になったのですね。
「不得手」が長所・かけがえのない個性にもなる
先日ある番組で、落語家の柳家花緑さんが「自分は発達障害だ」と告白しました。
小学校の頃は、主要5教科の成績が1か2ばかりで、授業中もおしゃべりがとまらない「多弁症」や、授業中に動き回る「多動症」もあったとか。
落語家になってからも、答えが「宝石」と分かりながら、「宝石」の漢字が出てこない。
「自分はなんてダメな人間なんだ」と自暴自棄になることもあったそうです。
しかし自分が発達障害と分かってからは、それを周りの人に伝え、不得手な所は支援してもらうようになったそうです。
そして「多弁症」をマイナスにとらえるのではなく、むしろ「多弁症」が「落語家」という職業に生きている。「多弁症」があるからこそ、今落語家として大成出来ているのだと、語っていました。
その一節が、以下の言葉です。
障害があるということにデメリットはあるかもしれないけど、反面、いいところも色々ある。
今落語家っていう商売をやっていて、多弁症が生きている。
誰にでも得手・不得手はあります。その中には、努力して変えられるものもあれば、どうしても変えられないものもあります。
しかし変えられない苦手な部分だけを見て、落ちこむ必要はありません。
仏教では「生命は同根」といわれ、私達1人1人の命の価値は全く同じだと教えられています。
性別や能力、容姿などの生まれ持ったものは人それぞれ違いますが、「能力や容姿が優れている人は存在価値があり、それらが劣っている人は存在価値がない」という考えは仏教にはありません。
能力や容姿は、その人その人の個性です。柳家さんが落語家という立場で本領を発揮されたように、それぞれの個性を磨いて適切な場で最大限発揮していくことが、本当に価値のあることなのです。
葬儀や法事でなじみの深い「阿弥陀経」というお経に、このような一節があります。
青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
(しょうしきしょうこう おうしょくおうこう せきしょくせっこう びゃくしきびゃっこう)
これは阿弥陀仏の極楽浄土に咲く蓮の花のありさまを表されたものです。
蓮の花は、1つ1つ異なる色の光を放ち、それぞれに輝いて咲いています。
蓮の花が放つ光の色は異なりますが、それぞれが素晴らしい光を放っていて、優劣はつけられません。
ちょうどそのように、個性は人それぞれ違いますが、その個性は誰にもマネできない素晴らしいものになり得ます。それらの個性を比較し優劣をつけるのは、ナンセンスといえるでしょう。
1人1人の個性を尊重し、プラスの面を伸ばしていく。苦手な所を、少しでもプラスな見方に変えていけば、それもまた、その人を輝かせるきっかけになるかもしれません。
子どもを見るときにも、こういう見方をぜひしていきたいですね。
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1人1人、個性は全く違うもんね。子どもの得意な所をうんと認め、伸ばしていく。とても大事なことだと分かったわ。
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そうですね。苦手なことも、見方を変えれば「得手」になると聞いて、心が明るくなりました。自分にも子ども対しても、そういう視点を持ちたいと思います。
まとめ
- どんな人にも「得手・不得手」ということはありますが、苦手な所が表立ち、失敗などが続くと、どうしても落ちこんだり、ミジメな思いになることがあります
- 1人1人個性は全く違います。苦手な所がある一方、その人にしかない得意な所もたくさんあるのです。その得意な所に目を向け、そこを伸ばしていけば、輝く人になれるのです
- 見方を変えれば、「不得手」な所が「得手」になり、誰にもマネできない力を発揮することもできます。そういう寛容な視点を自分にも子どもに対しても向けていきたいです